第一章 いざカリフォルニアへ
##一 旅の準備
**アメリカに行ってみない?
一九九○年の九月初めのことである。ここは東京大学の本郷キャンパスだ。
大学院の博士課程一年に在籍する私は、いつものようにコンピュータに向かっ
てキーボードをたたいていた。苦しかった修士論文からは解放され、一カ月後
に迫った学会発表に向けて数値計算を進めていたのだ。薄汚い研究室の中に、
外の明るい日差しがさしこんでいる。五人部屋なのだが遅出の人が多く、この
日もまだ私は一人でいた。そろそろ昼になろうとする頃「コン」とドアをたた
く聞き慣れた音がして、私の指導教官であるY教授が入ってきた。長身の教授
は、振り向いた私の横につかつかとやってきて、
「こはま君、アメリカに行ってみない?」
と、まるでいつもの昼食に誘うような口調で大きな話をもちかけてきた。
「Sさんのところなんだけどね、来年の夏に二カ月間。どう?」
あまりにも唐突であったが、私はとっさに
「あ、ぜひお願いします」
と答えていた。気の早い私の目の前には、もうカリフォルニアの青い空が広が
っていた。
そもそもこの渡米話をもってきてくださったのは、筑波技術短期大学の栗原
享助教授だったそうである。栗原さんはその前年一九九○年にカリフォルニア
州立大学ノースリッジ校(California State University, Northridge. CS
UN:この略称は「シーサン」と発音する)を訪れた。ご自身も弱視の栗原さ
んは、目の不自由な人向けのコンピュータの情報を得るために、そこにあるコ
ンピュータ・アクセスラボを見学したのだ。そこで強い印象を受け、私にもぜ
ひ見せたいと思われたそうなのである。なんともありがたい話だ。そのとき栗
原さんを案内していたのがCSUNの物理学科のS教授であった。そのS教授
と共同研究をするというかたちで、私をCSUNに呼んでくださる話がその場
でまとまったらしい。
その後、栗原助教授は私たちの滞在中にCSUNを訪ねてくれ、慣れない地
での生活に戸惑っている私たちを励ましてもくださった。
さて、こうして私たちの初の海外生活への第一歩が始まったのである。
[コンピュータ・アクセスラボ](Computer Access Lab. 以下、アクセスラ
ボとよぶ。第五章および参考文献参照)CSUNはアメリカの大学の中でも、
身体に障害のある学生のための設備や制度が充実しているので有名らしい。そ
のため、CSUNでは視覚障害のある人をはじめ、車いすに乗った人などさま
ざまな障害をもった人たちがたくさん学んでいる。アメリカはヨーロッパと比
べると必ずしも福祉が進んでいるとはいえないのだが、この状況はさすがに日
本よりはずいぶん進んでいる。
アクセスラボは、そういった身体に障害をもった学生のためにコンピュータ
周辺の環境を整備し、いかにそれぞれの人にコンピュータを使いやすくして快
適に学生生活を送ってもらうかを専門に研究し、アドバイスをしているところ
だ。コンピュータを上手に使うことが、身体の障害を補うために重要な役割を
果たすという考えの現れであろう。
滞在中、アクセスラボには週一、二度行って、いろいろ便利なコンピュータ
の使い方を教わった。
**
この渡米の話はあまりにも突然で、私たちにとっては大きすぎるものであっ
た。なにしろそのときまでに、車いすでの国内旅行の経験すら二、三回しかな
かったのである。
私の頸髄損傷という障害は、首の骨を折るなどして頸髄を傷つけることで、
誰でももつことができる。そして、身体への障害の現れ方は、微妙なところを
除けば、ほぼ損傷部位で決まる。私の場合は、胸から下はほぼ完全にマヒし、
腕は曲げることができるといったところだ。指は動かない。ただ、各種の補装
具を用いることによって、自分で食事をとることや遅いながら筆記もできる。
また、シフトロック機能(第五章参照)をもたせたパーソナルコンピュータ(
パソコン)であれば、ほぼ問題なく使える。
こういった身体の障害がある都合上、海外へ行くといってもそれなりの準備
が必要だ。とくに、今回のような長期滞在型の外出は経験がなかったので、何
をどう準備していいものやら見当がつきにくかった。それに、CSUNで私を
呼ぶための予算が下りることすら決まってもいなかったので、どうも話に現実
味がなかった。実際、CSUNの予算が下りたと連絡を受けたのは翌年の春先
のことであったし、
「この夏、二カ月アメリカに行ってきます」
などと人に言えるようになったのも、ちょうどその頃からであった。
けれども、ことが現実味を帯びてから準備を始めたのでは、遅すぎるかもし
れない。そこで、この話があった直後から行動を少しずつ開始することにした。
**
(真)渡米の話が出たのは、私たちが結婚する四カ月まえにあたる。新居と
なる部屋が見つかり、結婚式や披露パーティーの準備を具体的に始めた頃であ
る。したがって、渡米の準備は結婚のそれと初めのうち並行して行われた。結
婚も外国行きも、二人にとって初めての経験だった。考えなければならないこ
と、しなければならないことがたくさんで、私たち二人はあっぷあっぷしてい
た。
**電子メイルで準備開始
初めの段階での準備は、S教授との間で電子メイルを用いて行った。大学の
コンピュータは世界各地に張りめぐらされたネットワーク(インターネット)
に加入している。それを使うと、あちこちの大学や研究所に瞬時に〈電子手紙
〉を送ることができる。日常的に「イーメイル(e-mail)」とよんで愛用して
いる便利な通信手段だ。
まずこちらからは、私の身体の障害の状況、またどの時間にどのような介助
が必要かといったことを、できるだけ詳しくかつ具体的に書いて送った。これ
を英語で書くのに苦労した。ただでさえ、英語で手紙を書くときはあれこれ考
えて時間がかかる。そのうえ医療用語やら、身体のどの部分がどうしたとかい
うのを英語にするのは、なかなか骨の折れる仕事であった。
一方、S教授からは、どこからどういったサービスが受けられるとか、こち
らのメイルに対する質問などが電子メイルで次つぎと送られてきた。たとえば
、学生寮が大学敷地内にあり、そこが借りられるはずだとか、通勤には市で援
助しているリフト付きのバンが利用できそうだ、といったことである。また、
学生寮に車いす用の部屋があることや、寮から理学部までは約八○○メートル
で、徒歩で通うのも可能だということもわかってきた。さらには、買い出しは
週末にS教授が車を出してくださるということも知らせてくれた。
こうした連絡をしながら、私たちが送ることになる生活の具体像がだんだん
と形成されていったのである。その中で私がつねに心配していたのは、カリフ
ォルニアにどこまで日本と同じ生活環境を作り上げられるかということである
。アメリカに行くのだから、そこに合わせた生活をする必要はある。しかし、
日常生活の最小限の部分は、自分の身体に合わせておかねばならない。車いす
用の部屋ということで、建て物のほうはあまり心配していなかった。ただ、シ
ャワーを浴びるときに使うシャワーチェア(第三章参照)の調達と、ベッドと
車いすの間の乗り移り(トランスファー、第三章参照)が気がかりだった。と
くに、向こうでシャワーチェアが調達できないとすると、こちらから持ってい
かねばならない。また、送るとしてもちょっと面倒だ。
ところで、アメリカには自立生活センター(Center for Independent Living
:CIL)という組織があって、全米のあちこちに事務所をもっている。障
害をもつ人に、介助者の情報や公共の福祉サービスの情報を提供している。行
政に対してもかなり発言力があるようで、一九九○年七月にブッシュ政権のも
とで制定された「障害をもつアメリカ人に関する法律(Americans with
Disabilities Act :ADA)」の成立には重要な役割を果たしたらしい。
幸い、ノースリッジから比較的近いところに自立生活センターの事務所のあ
ることがわかった。そこに手紙でシャワーチェアのことを聞いてみた。すると
、私たちが向こうに行ってから、業者を紹介してくれることになった。
[ADA]ADAは身体に障害をもつ人に対する差別を禁じる法律だ。そこに
は、就職や交通機関利用の際など、さまざまな場面での差別禁止が含まれてい
る。何が差別かを明確に定義していることが、この法律の一つの大きな特徴と
いえる(参考文献参照)。残念ながら日本には、身体の障害に起因する差別を
定義し、それを禁じた法律はない。
**どうやって行くか
あとは、往復の交通手段をきちんと決めなければならない。海を越えるのは
飛行機に乗るとしても、車いすに乗った私が空港までどう行くか、飛行機には
どう乗るのか、そして向こうではどうするかが問題だった。
成田空港まで車で行くという手もあったが、もし渋滞すれば時間がどれくら
いかかるかわからないので、電車を使うことにした。わが家は上野駅に比較的
近いので、京成電鉄で行くことにした。私たちの渡米を待っていたかのように
、春には空港ターミナルビルの地下まで電車の乗り入れが始まった。ロスアン
ジェルス国際空港からノースリッジまでは、リフト付きシャトルを予約するこ
とにした。
残った問題は飛行機だ。どの航空会社にするか、またどうやって座っていく
かを考えねばならなかった。成田からロスアンジェルスまで約九時間かかる。
私はこれまでそんなに長時間座り続けたことがない。
長時間座り続けることの問題は、じょく瘡(床ずれ)ができてしまうことに
ある。お尻の同じところに圧力がかかり続けると、そこに傷ができてしまう。
それがじょく瘡だ。ふだんはキャスター上げをすることでじょく瘡のできるの
を防いでいるのだが、飛行機のエコノミークラスの座席ではそれはとてもむり
そうだ。とくに、直接にふつうの座席に座るのは危険だ。
以前に、車いすの人が飛行機に乗ったときに、いくつかの座席をとって横に
なって行ったという話を聞いたことがあった。それが本当なら、はたして料金
は何倍払ったのだろうか。それとも担架でもあるのかな、などといろいろ考え
ていたが、考えているだけではらちがあかない。やはり経験者にたずねるのが
一番よいだろうということで、頸髄損傷で私と同程度の障害レベルで海外に行
ったことのある人を探すことにした。
[キャスター上げ]車いすに乗ったまま、身体を車いすごと後ろに倒してお尻
の除圧をする動作を「キャスター上げ」とよんでいる(写真1:いすを使った
キャスター上げ。右手には書字用装具)。私が入院していたリハビリセンター
で、もっぱらこう言われていた。車いすの前輪(キャスター)が上がった状態
であることからきた名前であると理解している。人の膝を使わせてもらう場合
と、何か台を使う場合とがある。
私は一時間半ごとに五分間ほどキャスター上げをすることにしている。これ
はひとえに、じょく瘡ができるのを防ぐためである。このじょく瘡というやつ
は一度できると治りにくいので、とにかく作らないことが肝心だ。
身体が自由に動く人であれば、座っていても少しずつ身体を動かすものだ。
それが同じ場所に圧力がかかり続けるのを防いでいる。私にはそのような芸当
ができない。そのうえ、私は胸から下にはほとんど感覚がないために、たとえ
痛いはずでもわからずに座り続けられてしまうのだ。こうして血行が悪くなっ
たところにじょく瘡ができる。
じょく瘡予防は、除圧と清潔に保つことが一番である。さらに私の経験では
、体調を重要な因子として加えたい。疲労がたまってくると、それまではなん
ともなかったところに傷ができて驚くことがあるからである。こうした時はあ
わてて寝たきりの生活は送らずに、少しペースを落として生活するように心が
けている。症状が軽いうちであれば、それだけで治ることも多い。
**
こういうときに頼りになるのが、神奈川県厚木市七沢にある神奈川県総合リ
ハビリテーションセンターである。私がけがをして一年間入院していた、忘れ
たくても忘れられない病院だ。退院してからも年に数回通院して、リハビリを
受けたり日常生活に便利な器具の情報を教えてもらっている。
そこのリハビリテーション工学科に勤務している藤井直人さんに相談をした
。藤井さんは、コンピュータをどうすればより便利に使えるかをはじめ、これ
までにさまざまな生活上の工夫について助言してくださっている。今回の渡米
について相談すると、清家一雄さん(福岡県在住)を紹介してくれた。
清家さんは頸髄損傷の障害があり、カリフォルニア州バークレーに約一年間
滞在した経験があるそうだ。手紙を出すと、当時まだ見ず知らずの私にていね
いな返事と当時のことをまとめた多くの資料を送ってくださった(「アメリカ
の一年」脊損ニュース、一九八七〜八八年)。また、藤井さんの紹介で、七沢
更生ホーム職員の寺田安司さんには直接話をうかがえた。寺田さんは、頸髄損
傷のある方の介助者として、バークレー視察に一週間ほど同行したことがある
そうだ(金子寿・寺田安司「バークレー見聞録」一九九○年)。
それらの話を総合すると、空港では機内専用の車いすに乗りかえることや、
ローホー・クッションがあれば機内でのキャスター上げはいらないことなどが
わかった。
[ローホー・クッション]これはエア・クッションの一種で、表面に縦八列横
八列の突起が並んでいる。生物の教科書に載っている小腸の断面を思わせる姿
だ(図1)。そのままだと厚さが約一○センチあり、座ってもその半分の厚さ
が残る。座ったときの重さのかかり方により形を微妙に変えて、圧力を分散さ
せるしくみだ。このローホー・クッションを使えば、機内でキャスター上げが
いらないらしい。噂には聞いていたが、そんなに効果があるのならと、さっそ
く購入した。国内では日本アビリティーズ社で取り扱っている。
車いすの科学者として有名なイギリスのホーキング先生も、このローホー・
クッションを使っていた。一九九○年の秋に国際会議で本郷キャンパスにいら
したとき、会いに行ったのだ。少し話をさせてもらったのだが、そのときにこ
のクッションに座っておられたのを私は見逃さなかった。ただ残念ながらその
使い心地は聞き逃してしまった。
**航空会社を選ぶ
航空会社はユナイテッド航空にした。車いすでこれまでに海外に出たことの
ある人にたずねた結果である。空港や機内での対応が、非常によいとのことだ
。日本の航空会社は、やはりだめだそうだ。当時、アメリカでS教授が私のた
めに日本の某航空会社から航空券を買ってくれようとしたら、医師の診断書を
要求されたそうである。最近でこそ少しは改善されてきてはいるが、今でもお
粗末な対応をされることが少なくない。
出発が七月中旬でちょうど観光シーズンの幕開けにあたるため、航空券は安
くはなかった。それでも、一番高い七月の終わりから八月にかけてよりは、い
くぶん安いようだった。
初めは、日本の旅行代理店で買うつもりだった。しかし、調べてもらったと
ころ、アメリカで買った方が数千円安いことがわかった。そこで、S教授に呼
び寄せてもらうということで、アメリカで購入してもらった。一人往復一○二
○ドルであった。この頃の一ドルは約一四○円である。そして、切符を買って
から、こちらのしてほしいサービスを示していくというやり方をとることにし
た。この方が、その会社の利用者として、私たちにきちんと対応してもらえる
と判断したからである。おもな希望として、機内用車いすにはチェックイン時
ではなく、搭乗直前に乗り換えたい旨を伝えた。
こうして私たちの渡米の日程は、七月一四日(日)に日本を発ち、九月一二
日(木)に帰ってくることとなった。
**予行演習で成田空港へ(真)
私たちは二人とも、それまで一度も成田空港に行ったことがなかった。いき
なり出発当日に行って戸惑うのもつらいだろうと思い、予行演習として空港ま
で行ってきた。私たちの不安な気持ちが、そうさせたのだった。
出発まであと二カ月足らずとなった五月二五日。京成上野駅ではちょうど特
急がホームにいて、急いで乗り込んですぐの発車となった。車内は座席の半分
も埋まらないほどのすき方である。私たちは悠々と乗車できた。陽の光のまぶ
しい電車の中で、キャスター上げをしてくれと夫がせがむ。一、二分の停車時
間ではとてもむりで、するとすれば走行中にかかってしまう。勢いよく走って
いる電車の中で車いすを傾けるなんて無茶だと思った。私は何度か
「ちょっと危ないんじゃない?」
と言って拒んだが、夫はあきらめずしつこくせがみ続ける。しかたないなァ、
と駅での停車時に車いすを前に出しておそるおそる自分の膝の上に傾ける。そ
のうち動きだした電車だが、嵐の中の船と違い、その動きはキャスター上げの
姿勢をさほど妨げるものではなかった。電車の中でもキャスター上げができる
、ということがここに実証された。ある程度電車の中がすいているのがその条
件ではあるが。かくして予行演習は、電車内でのキャスター上げも初体験でき
、実りあるものとなった。
思えば、これまでさまざまな場所でキャスター上げをしてきたものだ。公園
、喫茶店、レストラン、デパート、映画館、などなど、行く先々で、である。
なにしろ一時間半ごとにするわけだから、何かしている最中になることも少な
くない。たとえば、映画はだいたい二時間ぐらいなので、途中で一回する。映
画館で夫は車いすに乗ったままいつも通路にいるが、通路の狭いことが間々あ
る。おまけに段差があることが多いので、場所の確保が難しい。上映中なので
、他の客の邪魔になってはいけないし、自分たちも観ながらだし、というわけ
で、これが無事すむと言いようもない安堵感に包まれる。コンサート会場でも
同様のことがいえる。
いすが一つあればできるのであるが、そのいすを探すのにしばしば苦労する
。歩き回っても見つからず、ビルの階段でしたこともある。この場合、二段目
くらいでやるにしても階段が低すぎるのと、私の服のお尻の部分が汚れるとい
う難点がある。
**いよいよ出発
切符も届き、準備万端整った。いよいよ出発である。とりあえずやるだけの
準備はやったと自分たちに言い聞かせて、最後の数日を送った。それでも荷物
の確認は、二人で何度もやってしまった。
緊張からか、私は出発の三日まえに熱を出してしまった。情けない限りだ。
それまでにむりをしていた疲れもあったのだろう。ベッドの上でぼんやりとし
ながら、数日たつとアメリカにいるなんて嘘みたい、などと考えていた。不思
議と、ぐあいが悪くて行けなくなるとは考えなかった。そして、幸い大事には
いたらなかったのである。
行くまえに、少しでも本業の研究を進めておくつもりであった。でも気を緩
めると、あれを忘れてはいけないとか、あのことを確認しなくては、などとい
うほうに気がいってしまい、なかなか集中できなかった。そこで、向こうに行
ってから落ち着いてやればいいやと開き直ることにした。
**持ち物リストと荷物の仕分け(真)
旅行好きの私は、旅じたくをさほどおっくうに思わない。それでも、二カ月
生活するとなると、ちょっとわけが違う。だいたい、生活に必要な物を全部持
っては行けない。どの程度、現地調達するか、まえもって送るか、考えて振り
分けなければならない。大きな物はノートパソコンから日常的に必要な介護用
品がいろいろあって、とても頭の中だけでは処理できない。そこで、荷物用リ
ストを作った。持ち物をその性質別に並べてパソコンで打った。簡単なものだ
が、紙の上にまとまっていると考えやすい。持ち物は、その旅行の行き先、時
期、期間によって微妙に変わるが、このリストはその後も旅行のたびに役立っ
ている。
どのくらいの荷物が二人といっしょに行けるのか。私たちの旅行の際のいで
たちは、実用第一のシンプルなものだ。二人とも、めかさずにふだん着、夫は
乗りなれた車いす、私は履きなれた運動靴。私は彼の車いすを押すので、手荷
物が持てない。こうして、持てる荷物が制限されてくる。よくあるキャスター
付きのスーツケースは使えない。夫の車いすの背中にリュックサックを一つ掛
け、夫の膝の上にスポーツバッグを置き、私がリュックを背負う。その三つが
大きな荷物で、あと、小さなバッグを私が首と腕を通してかけ、パスポートな
どの大事な物を夫のお腹の貴重品入れに入れる。
現地で使うかさばる物、すなわち洋服、タオルなどは郵便局のSAL便で送
った。SAL便は航空便より安く、船便よりはずっと早く着く。二、三日で着
いてしまう宅急便は、ずいぶん高いようだ。今回、カリフォルニアまでSAL
便で平均約二週間かかった。無事それらが着いたかどうかは、S教授に電子メ
イルで知らせていただいた。
##二 飛行機に乗る
**東京は雨だった
その日がついにやってきた。七月一四日、日曜日である。私たちとのしばし
の別れを惜しむかのように、東京は雨で濡れていた。
「よお兄ちゃん、いよいよだね」
朝九時を回った頃から、弟のタクと私の両親が、私たちの見送り兼手伝いに集
まってきてくれた。三人とも、荷物持ちとして成田空港までいっしょに行くこ
とになっている。
「あきひさ、疲れた顔してるけど大丈夫なの?」
と鋭いつっこみをしてくる母に、
「まあね」
と答えつつも、自分の体調に自信をもてないでいる私であった。ふと気がつく
と、父が重い荷物を黙々と玄関から外へと運びだしていた。
一カ月まえから頼んでおいたリフト付きタクシーが、予定の一○時より早め
に迎えに来た。京成上野駅までは徒歩で行こうという案もあった。しかし、も
しも雨が降ると、荷物が重いうえに傘をさしてもらうのはやっかいだ。ちょう
ど雨が本降りとなっており、タクシーを頼んだこの選択は正解であった。
七月だというのにけっこう寒い。梅雨明けにはまだ少しかかりそうだ。半袖
でいるのが少々つらい。
京成上野駅までは、もともとたいした距離ではない。徒歩でも二○分ほどで
着くだろう。一○時一五分を少し過ぎてから家を出たにも関わらず、一○時半
には着いてしまった。池之端口は不忍池のすぐそばだ。雨はしっかりと降り続
いている。
両親が切符を買っているあいだに、駅員に声をかけておいた。ホームへは、
エスカレーターを利用して、駅員二人がかりで下ろしてもらった。エスカレー
ターでの上り下り、とくに下りのエスカレーターを利用するのは、何度やって
もらっても怖い。成田への行程で階段はここだけだ。あとはエレベーターもス
ロープも整備されている。
一一時四分発の特急が定刻に発車した。ちなみに、京成スカイライナーは、
車いすで乗るスペースを用意していないお粗末な代物である。そこで、車内の
広々とした名もない特急を利用した。かかる時間はあまり変わらない。車内か
ら見えるこの景色を、次に見るのが二カ月先かと思うと感慨深い。一二時一六
分には成田空港駅に着いた。ここまでは、すべて五月の予行演習どおりだ。順
調である。
**本番の成田空港
私たちが乗るのは、ユナイテッド航空八九○便である。成田空港を一六時四
五分に飛び立ち、ロスアンジェルス国際空港に同じ日の朝一○時四五分に到着
する。時差があるので時刻がもどってしまうが、九時間かかるのだ。
出発ロビーは四階で、一四時にユナイテッド航空のチェックインカウンター
に全員で向かった。出発予定時刻の二時間まえにはチェックインするようにと
、あらかじめ言われていたからである。ここから先は予行演習では立ち入れな
かった、私たちにとって未知の世界だ。
カウンターでは、ひたすら待たされた。夏休みに海外へ行く人たちでごった
返していたのである。長い列の後ろについて、自分たちの番を待った。そして
、朝からの疲れがどっと出てきた頃、ようやく私たちの順番がやってきた。荷
物はスポーツバッグのみを預けることにした。
ひき続いて搭乗手続きだ。
「こはまさんですね。ウイルチェア(車いす)のリクエスト入ってます。こ
ちらで機内用のウイルチェアにお乗り換えになりますか?」
「いえ、自分の車いすに乗ったまま飛行機まで行きたいんですが。あと、搭
乗口まで誘導してもらえますか」
「わかりました。では、しばらくそちらでお待ちください」
と、その女性職員はカウンターから少し離れた辺りを指さした。
やはり、自分の車いすでできるだけ飛行機のそばまで行くほうが楽である。
それにしても、この件については一週間もまえから電話で伝えておいたはずだ
。あまりこまかいことは、カウンターまで伝わってないようである。面倒でも
、こちらの要望はそのたびごとに言っていかねばならない。
またしばらく待たされ、一五時半にようやく空港職員が迎えにきてくれた。
その人が車いすを押してくれて、妻、両親、そして弟がそのあとにぞろぞろと
続いた。雑踏を抜けていくと、フロアの隅のほうにある車いす専用エレベータ
ーにたどり着いた。
「申しわけありませんが、お見送りはここまでです」
その係員は、軽い口調だが、きっぱりと言った。エレベーターの前の狭苦しい
場所で、突然訪れたお別れだ。家族との劇的な別れを予期し、涙の一つでも見
せてしまったらどうしようと心配していた私たちは、あっさりと
「じゃあ」
のひとことで見送られたのだった。予想もしていなかった別れの風景である。
**誰もいない機内へ
ゲート近くで心の準備をしているところへ、先ほどの空港職員が迎えにきた。
「申しわけないんですが、飛行機は空港ビルのそばにはつかないことになっ
てるんですよ。あ、でもバスの手配はもうすませましたので大丈夫です。ご心
配なく」
どうやら、離れたところから乗らなければならないらしい。そこまではとりあ
えずわかったのだが、ではいったいどうやって乗せてくれるのだろう。
私の頭の中には、テレビで見たゴルバチョフの姿がくっきりと浮かんだ。飛
行機から出てきたゴルバチョフが、満面に笑みをたたえて手を振りながら、階
段を一段一段ゆっくりと下りてくるのだ。あの階段を持ち上げられるのは大変
そうだ。もみくちゃにされてしまうかもしれない。不安が頭をぐるぐると駆け
めぐる。そんな気持ちが空港職員に伝わるはずもなく、その人は私の車いすを
押してずんずんと進んでいった。
ゲート入口でボーディングパス(搭乗券)を切ってもらい、いよいよ搭乗だ
。そしてそのまま、飛行機の横腹へと掃除機のホースのように伸びている仮設
通路を通っていったのだった。
――なんだ、このまま乗れるんだ。そういうことは早く言ってくれなきゃ困
るじゃない――
とほっと胸をなで下ろした直後、ホースの先端に現れたのは荷物用の昇降機で
あった。
コンテナのような〈箱〉がトラックの荷台に乗っていて、その箱がマジック
ハンドの大きなもので持ち上げられた格好になっている。私たちは、先ほどか
らいっしょに行動してくれている空港職員、そして共にカリフォルニアまで行
くと思われる日本人を含む数人の女性客室乗務員(スチュワーデス)と、その
箱に乗り込んだ。
その中の一人は洗練された美しさを放っていて、私はすっかり気に入ってし
まった。
――こんなきれいなスチュワーデスさんといっしょなら、初めての空の旅だ
って怖くないぞ――
と、心が明るくなった。
扉が閉まると、がくんという衝撃とともに私たちを乗せた箱が下がりだした
。不安な顔をしているのは私と妻の二人だけだ。あとの人は落ち着いた表情で
いすに腰掛けている。こんなことではいけないと思い、平静を装うとしたのだ
が、急にトラックが動き出したときには、またびびってしまうのだった。
小さな窓から頭を傾けながら外をのぞき見ると、ユナイテッド航空の飛行機
がだんだんと近づいてきた。そして、トラックは一番前の右側のドアの下に止
まった。ふつうに乗り降りするドアとは反対側である。私たちを乗せた箱は、
静かなうなり声とともに上昇を始める。
箱の扉を開けると飛行機のドアも開いていて、妙な車いすを押した人がこち
らに乗り込んできた。買い物用手押し車の格好をした、とにかく車幅の狭い車
いすだ。「アイルチェア」とよばれている。通路を意味するアイル(aisle )
からきていると理解している。中の通路が狭いので、ここから先はその車いす
に乗らなければならないようだ。私の車いすは搭乗手続きの際に託送手荷物と
してすでに登録してあったので、ここでついに預けることになった。念のため
、壊れ物の指定をしておいた。
こういう場合の乗り移りは、まず後ろから一人に脇の下から腕を入れて上半
身を持ってもらう。そしてもう一人には、前から両足、できればももの辺りを
両手でしっかりと持ってもらって、どっこいしょと乗り移らせてもらえばよい
。後ろから持ってくれる人には、くれぐれも私の肩に負荷がかかりすぎないよ
うにお願いをした。
こうしてなんとか乗り移らせてもらったアイルチェアの乗り心地はきわめて
悪い。車いすの寸法が私に合っていないので、身体が不安定なのだ。こんな車
いすに早くから乗せられていたら、搭乗まえに疲れきっていたに違いない。安
全ベルトで身体をしっかりと固定してもらうと、飛行機へと渡された不安定な
橋を通って機内に乗り込んだ。
外からはあれほど大きく見えたジャンボジェットの機内が、こんなに狭いと
は思わなかった。それに、通路がじつに狭い。ふつうの車いすでは通れそうに
ない。アイルチェアは大きな車輪をはずされ、さらに細身になっている。機内
用車いすの必然性をあらためて実感した。
さあこれからの九時間を、ローホー・クッション上に座ったままで過ごさな
ければならない。見回すと乗客はだれもいない。一番乗りだ(写真2:はやば
やと座席に着く)。
**「最善を尽くす」に安堵
座席位置は、私が中央の列の右の通路側、妻がその左だった。スクリーンか
ら三列目で映画は見やすそうだったが、窓の外はほとんど見えない。やっとの
思いで窓の外をのぞいても、そこには長い翼が伸びていて、窓の縁とその翼の
間からわずかにその下が見えるだけだった。
景色の面だけではなく、車いすから座席に移ることを考えても、その位置は
あまり便利ではない。乗り移りの際に、前の座席の背もたれが邪魔になるのだ
。座った後に腰の位置を微妙に調節してもらうにも、やはり不便だ。スクリー
ンのすぐ前であれば、前に座席もなく、少しゆったりしているので都合がよい。
それに、日本人の中でも小柄な私たち二人にとっても、エコノミークラスの
座席は狭苦しい。アイルチェアから座席に乗り移らせてもらうのがひと苦労だ
ったのは、その狭さも原因の一つである。
もの珍しさから、落ち着きなくきょろきょろしていた。そういえばアメリカ
の航空会社なので、アメリカ人風の客室乗務員がほとんどである。その中で、
少しお年を召した女性乗務員がやってきた。
「乗り心地はどうですか?」
と聞いてくるので、こちらも落ち着いて
「とてもよいですよ」
と答えた。もちろん英語だ。これから先も、機内での会話は独り言と真実子と
の話を除けば、すべてつたない英語である。
その人は私たちのことを気づかってくれ、これから向こうに着くまでのこと
やもろもろのことをていねいに説明してくれた。そして、こちらの話もよく聞
いてくれた。とりわけ、
「もし事故があったとしても、私たちは最善を尽くして助けるから安心して
ください」
と言われたのには驚いた。本当に事故があったときには、どうなるかはわから
ない。しかし、このような応対は私に安心感を与えてくれた。航空会社の姿勢
がうかがえた。
しばらくすると、どやどやと多くの人が乗り込んできた。周りの席はほとん
どうまってしまったが、妻の左隣はちょうどよく一つ空き、その向こうに初老
の紳士が座った。〈箱〉でいっしょだったきれいな女性客室乗務員が、扉を閉
めている。目の前のスクリーンが下ろされ、救命胴衣の付け方についての説明
が始まった。
**毛布をもう一枚
離陸まえからすでに毛布を借りて肩までかぶっていた。それでも冷房が効い
ていて寒いので、もう一枚毛布を持ってきてもらうことにした。過度の冷房は
嫌いなのだ。
私は暑さも寒さも苦手である。これは、頸髄を損傷したことによる体幹機能
障害が主な理由である。自律神経がうまく働いていないのだ。頸髄損傷の経験
のない方には想像しにくいことかもしれないが、暑い時でも汗はかかず、顔を
真っ赤にしてふーふーしているし、寒い時には骨の芯から冷えてしまう。周囲
の温度と体温との相関が強く、環境によって体調が左右されやすい。冬の暖房
は当然として、夏の冷房も必需品である。真夏の睡眠には簡易氷枕のアイスノ
ンが欠かせない。ただ困ったことに私は冷房に弱い体質で、冷房の効きすぎた
部屋に長くいると体調を崩してしまう。その点、扇風機はすぐには身体が冷え
ず、穏やかにきいてくるので気に入っている。
金髪の女性乗務員が通ったので、
「すみませんが、毛布をもう一枚持ってきてください」
と英語でお願いした。ちょうどエンジンの音がうるさくて、
「よく聞こえないわ」
という顔をされてしまったので、大きな声で同じ言葉をくりかえした。今度は
、よくわかったわ、という顔でどこかへ行ったので、安心して毛布がくるのを
待っていたのである。
しばらくしてその人が戻ってきたときに、いっしょに来たのは毛布ではなく
て、
「どうなさいました?」
と、日本語で聞いてくれるアジア系の女性乗務員であった。無惨にも、私は英
語の話せないやつと思われてしまったようだ。かけらほどはあった自信が、音
を立てて崩れていった。いきなり出鼻をくじかれた気がして、
――このさき大丈夫だろうか――
などという不安がむくむくと頭をもたげてきてしまったのであった。
[機内での食事介助](真)私がとくに機内の狭さを感じたのは、食事どきだ
った。夫はふだん、食事用の装具を手に付けて自分で食事をとっている。けれ
ども機内ではテーブルが遠すぎ、夫が身体を動かしにくくなっているので、そ
れはできない。そこで、私が食べさせることになる。これが窮屈で、やりづら
い。私は夫の左側の座席だったので、右利きの私は手がねじれてしまい、さら
にやりづらさが増した。右利きの人間が左から食事介助するのは難しいのであ
る。食べさせられる夫も、食べにくそうだった。お互いにいやな時間を過ごし
てしまった。
こんな経験をしたので、その後の飛行の際には、座席の位置には注意してい
る。狭いのはしかたないとしても、私が夫の右側に座れれば少しは楽なのだ。
さらに夫の座席への乗り移りのことも考えて、通路のすぐ右二つの席にしても
らえるように、予約後に航空会社にお願いしている。格安のエコノミーの席で
は本当は指定できないそうだが、事情を理解していただき、かなえてもらって
いる。この点に関しては、航空会社のご配慮に感謝している。
**肘鉄で安眠妨害
背があまり高くない私だが、機内では違う。ローホー・クッションを敷いた
ぶん、背もたれの上から頭がぽっこりと飛び出るのだ。これはあまり嬉しいこ
とではなく、頭の位置が落ち着かない。そのため、背もたれをいっぱいに倒し
て座ることにした。しかし、悲しいことにこのエコノミークラスの座席では、
後ろに倒れるという感じからはほど遠い。それでも少しは楽である。
離陸まえからその姿勢でいたら、離陸準備のときに客室乗務員が回ってきて
、もとの位置に直されてしまった。離陸して水平飛行になるまでは、背もたれ
はきちんと起こしておかなければいけないらしい。
また、長時間座っていると、座席の幅が狭いために腕の位置が安定しなくて
困った。私は肩の前方の筋力が弱いため、腕組みができない。肘の後ろ辺りに
支えがあれば腕を前にとどめておくことができるが、そうでないと腕が外に開
きやすいのである。そのため、外から力がかからなければ、たいてい脇を開け
て両腕を曲げた状態で両側に広げている。要するに、肘を張った格好である。
日頃からそうなので、機内でもやはりそうしていた。
左腕の方がさらに筋力が弱いので、そのぶん肘が横に張り出してしまう。そ
の結果、左隣に座っていた妻は、私の肘鉄の被害を受けることになってしまっ
た。決して寝つきの悪くない妻であるが、その肘鉄のせいもあってなかなか眠
れないと怒っていた。
上空では機内も気圧が低くなる。空気でふくらませてあるローホー・クッシ
ョンは、それに応じて膨らんでしまう。清家さんの資料や寺田さんの助言では
、ローホー・クッションが膨らんだら空気を少し抜くように、とあったが、面
倒だったのでさぼってしまった。
飛行機が安定飛行に入ったころ真実子に調べてみてもらうと、本当に地面に
いるときより膨らんでいた。やはり機内の気圧は下がっているのだ。ただ、破
裂するほどではなさそうだし、着陸したあとでまた空気を入れなくてはならな
い。そのままにしておいたが、結局大丈夫だった。
いつのまにか日が暮れて、周囲は真っ暗になってしまった。街灯があるわけ
もなく、真っ暗闇を飛んでいるわけだ。エンジンの音と時どきくる揺れがなけ
れば、飛んでいるのか止まっているのかわからないほどだ。
[機内での用足し](真)お手洗いについては、夫はふだんゴムと金具ででき
た収尿器という道具を使って行っている。袋に流れてきた尿を捨てればいいの
である。
機内でも、基本的にはいつもと変わらない。ただ、彼は座席から動くのがむ
ずかしい状態にある。そこで、座席から手洗いへと尿を運ぶのが私の仕事にな
る。重宝したのは、機内に備えつけられていたゴミ袋だ。小さな紙製のものだ
が、内側に水を通さない加工がされている。この袋に収尿器の管から流し込ん
で、袋の縁を二度ほど折り込んで、お手洗いに持っていき、捨てた。すぐ近く
に他の乗客がいる状況なので、うまく隠しながら袋に流すのに苦労した。そし
て、袋を持って通路を通るときには、変に隠さずにさり気ない様子を心がけた
つもりだ。
**アメリカ大陸に上陸
窓の外が、だいぶ明るくなった。ほとんど眠っていないので、頭はぼんやり
としている。上映された映画は二本ともしっかり見てしまった。外の明るさの
おかげで、爽やかな気分でいられるのがせめてもの救いだ。西海岸時間に合わ
せた朝食が出てくると、日本時間ではまだ夜中であるにも関わらず、もう朝な
のだという気がしてくる。
いつのまにか陸地が見えている。アメリカ大陸だ。ついに太平洋を渡ったの
だなあと、ひととき感慨に浸った。
「今ちょうどサンフランシスコ上空です。サンフランシスコ湾がきれいに見
えます」
という機長のアナウンスがあった。しかし残念ながら、私たちの席からはよく
見えなかった。
着陸態勢に入るというアナウンスが流れた。客室乗務員たちが座席を回って
背もたれを起こしたり、安全ベルトを確認している。私のところに回ってくる
と、それまで最大に寝かせていた背もたれを起こしていった。
もう地面はすぐそこだ。時どき翼の陰から見えかくれする家並が、ずいぶん
大きくなった。どんどん機体は下がっている。外を見ていた私の目とほとんど
同じ高さに、突然土手のようなものが現れた。そのとたん、下から突き上げる
ような、ずん、という音がして着地した。久しぶりに感じるタイヤの揺れの中
、急激な減速で身体が前に引っ張られる。止まれーっと、心の中で叫ぶ。みる
みるうちに速度は遅くなり、ゆっくりとした自動車なみの動きになった。どう
やら滑走路から飛び出す心配はなさそうだ。ほっと胸をなで下ろしていると、
飛行機は緩やかに方向を変えて、静かに止まった。ほぼ予定どおり、現地時間
で一○時半だ。ついにアメリカ大陸に上陸成功だ。
**役に立った耳栓と飴(真)
初飛行にあたって、夫の担当教授のY先生から教わった二つの物が役立った。
一つは、先生に出発まえにいただいた耳栓である。このおかげで私は、そう
長い時間ではないが、眠れた。私たちの席は翼の付け根の上だったので、エン
ジンの音がひどくうるさかったのである。私はこういうものを使うのは初めて
だったが、用があって夫に呼ばれてもわからなくなるぐらい別世界が作りださ
れた。
ただ、夫はその耳栓を使わなかった。夫にとって、耳は限られた使える感覚
なのだ。そのため、耳栓でふさいでしまうとかえって周りが気になるそうで、
逆効果だと言う。
もうすっかり座り疲れてしまった頃、夫が、
「耳が痛くならない? 気圧が変わったのかなあ」
と言いだした。外を見てみると、ずいぶん地面が近くなっている。先生に教わ
ったもう一つの物、飴を袋から出して、それぞれの口に放りこんだ。もちろん
、耳鳴りがした時にはつばを飲みこめばよい。でもそれだと、飛行機が少し下
がるごとにつばを飲みこみ続けなければならない。飴でもなめていなければ、
つばがすぐに切れてしまう。飴玉は、二人ともに確かな効き目があった。
世界を飛び回っておられる先達の知恵に感謝したしだいである。
**ロスアンジェルスは快晴
飛行機からは最後に降りた。というか、最後になるまで降ろしてもらえなか
った。みんなが乗るまえに乗せられて、降り終わってから降ろされたというこ
とは、私と真実子は乗務員に次いで飛行機の中に長くいたことになる。あまり
嬉しい気持ちはしない。
けっこう時間をかけて乗客がみんな降り終わると、浅黒い肌で顔がインド人
のような人(以下、失礼ながら勝手に〈インド人のおじさん〉とよばせていた
だく)と金髪のでかいおじさんがやってきた。空港職員なのだろう。そのイン
ド人のおじさんは、成田で見たのとまったく同じ買い物用手押し車の格好をし
たアイルチェアを押していた。その二人が私をアイルチェアに乗り移らせてく
れた。
座席の間の狭い通路を抜けて、扉までたどり着いた。後ろから大きなリュッ
ク二つと、ローホー・クッションを抱えた真実子がよたよたとついてきている
。扉のすぐ外には、懐かしい私の赤い車いすが出迎えてくれていた。あの幅の
狭いアイルチェアに乗せられている時間が最小限に抑えられたのは、幸いであ
った。できるだけ自分の車いすに乗っていたい、というこちらの要望がわかっ
てもらえたのだ。
ようやく自分の車いすに乗ることができたのだったが、落ち着くまもなく、
建て物の中へと入っていく。インド人のおじさんが、車いすを押してくれてい
る。これで入国審査だ、と思っていたら、いつのまにか建て物の外に連れてい
かれてしまった。目の前には小型の低床バスが停まっている。どうやらそれに
乗るようだ。後ろにドアがあり、そこから数人の介助で簡単に乗ることができ
た。
快晴である。さんさんと日の光が降り注ぐ中、バスは空港ビルへと向かう。
さぞ外は暑いだろうと覚悟していたのだが、気温はそれほど高くない。窓から
吹いてくる風はとても爽やかである。インド人のおじさんに、
「今年の夏は例年より涼しいんですか?」
とたずねてみたら、そんなことはないという答えが返ってきた。
――この程度の暑さなら楽勝だ。カリフォルニアはそれほど暑くないんだ―
―心の中でガッツポーズをつくってしまった。
たしかに空港付近はあまり暑くない。だからといって、これから行くノース
リッジが暑くないという保証はない。実際、数時間後に、ノースリッジがひど
く暑いところなのを身をもって味わうことになる。
空港ビルに着くと、付添いのおじさんは、さも手慣れた感じですいすいと車
いすを押していった。入国手続きのカウンターは、長い列ができている。これ
はけっこう待たされることになるなと覚悟を決めると、私の乗った車いすは、
人の並んでいないカウンターへと進んでいってくれたのだった。勝手を知った
人がいてくれるのは心強い。おまけに審査官は日本語のわかる人だった。おか
げであまり時間をとられずに入国できた。
あとは荷物だ。相変わらずすいすいと車いすを押してもらっていくと、目の
前にはベルトコンベアが現れ、そこにたくさんの荷物が並べられていた。荷物
がなくなることがあるという話を聞いていたので、どきどきしながら探すと、
見覚えのあるスポーツバッグに目が止まった。真実子もほとんど同時に見つけ
たようだ。小走りに取りに行き、手押し車に乗せて押してきた。荷物が重そう
だということで、インド人のおじさんは今度はその手押し車を押し、真実子が
車いすを押すことになった。
出口はすぐ近くで、緩やかな上り坂になっている。ゆっくりとそこを上って
いくと、迎えに来ている人たちが、いっせいにのぞき込んできた。自分たちの
待っている人が来たのかどうかを確かめているのだ。どうやら彼らは、坂から
先へ入ってきてはいけないようだ。そのたくさんの顔の中に、S教授らしい顔
は見つからない。
坂を上りきろうとした頃、小柄な男の人が駆け寄ってきた。そして私たちに
何か声をかけると、インド人のおじさんから手押し車を引き取り、私たちと同
じ方向に歩き出した。その人がS教授だとわかるには、数秒もかからなかった
。そのあまりに突然の現れ方に驚いたのはインド人のおじさんも同じだったよ
うである。しかし彼は
「オーケイ」
と言ってにこやかに軽く手を振りながら、いま私たちが来た方向へと帰ってい
った。慌てた私たちは、親切にしてくれたその人に、
「サンキュー」
と言って手を振るしかなかった。
「あっ、チップ……」
と思い出してもあとの祭りだ。ただ、まだチップなど渡したことのない私たち
にとって、いくら渡してよいものか見当もつかなかったのも事実であった。
第一章おわり
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