根津の町を歩いてきました ⁄ 2026年4月17日 金曜日
向ヶ岡学寮がついに五〇周年を迎える。その知らせには、近いうちに廃寮となる見通しが強いという話も書いてあった。めでたいのか寂しいのか複雑な気持ちで
「何それ、マジかよ」
とつぶやいた。
一九八八年四月に私は大学院理学系研究科に入学した。そのときから、本郷での学生生活と寮の生活が同時に始まる。大学院からの入寮は、通常は認められていない。私は車いすを使って生活しているため、例外にしてもらえた。
同じ時期に寮生だった方が、夫の旅立ちを今年になって知ることになり、お彼岸の前に悼んでくださった。
お気持ちがありがたく、アキが寮にいた頃のこと、寮を出て近くに住んでいた8年弱のことが思い出された。
先日、他の用事のついでもあり、文京区の住んでいた辺りを久しぶりに歩いてみた。
最寄りの地下鉄の根津駅にはかつては長い階段しかなかったが、さすがに今はエレベーターが備わっている。
町はそれなりに変わっていた。建物は全体的に巨大化していたが、残っていたものも少なくなかった。たまに一緒に行っていた豚カツ屋さんはなくなっていたが、から揚げの美味しかったお肉屋さんは残っていた。
住んでいた小さなマンションは、少し古びて生き延びていた。入居時の35年前は新築だったのだ。
わたし達のいた1階の部屋は日当たりが悪く、訪ねてきてくれた伯母に「半地下だね」と憐れまれたものだ。立地のよい物件で家賃を払えるところをやっと見つけたので、半地下なんて気にしていなかった。
寮までの道のりは大学の敷地沿いを通る。あの頃お休みの日に敷地内で勝手に二人でバドミントンをやっていた。何度か近所のおばあさんが見に来て、将棋とお酒の好きだった旦那さんの話をしていった。今ではそんな、いい加減な空間はなくなっている。
寮の方に、アキの研究に通う際の介助をお願いしていたこともあった。車いすからベッドへの乗り移りの介助中にアキが床に落ちてしまい、慌てて寮に電話をして、助けを呼んだこともある。この道を急いで来てくださったのだろう。思いの外、距離がある。
そんなことを考えていると、寮のあった場所が眼前に現れる。しとしと雨の中、桜の古木たちが花を咲かせはじめていた。
白いお上品な2階建ての洋館が、澄ました顔をしていた。黒っぽくて和風で生活感のあった(わたしの印象では)寮とは対照的だ。大学関係者用の宿泊施設になっていて、レストランは外部の人も利用できるようだ。
お庭には学寮址を表す石碑がある。寮の関係者でお金を出し合って建てたものだ。レストランは開店時間前だったので、敷地内に入ることはあきらめ、後ろ姿の石碑にご挨拶となった。
「第二の故郷だよ」とアキが馴染んでいた根津の町は、面影を残しつつ、穏やかに迎えてくれた。